外山正一
日本社会学家、教育家
(1848~1900)教育家启蒙家,诗人。出身幕臣家庭,曾学于藩书调所,后赴英、美留学。历任东京大学教授、校长、文部大臣等。在东大期间,讲授斯宾塞的社会学。
生平
其从进化主义的立场出发,倡导采用罗马字,并积极支持戏剧改革运动。与井上哲次郎合编《新体诗抄》。
日本西南战争期间,为政府军的军歌《拔刀队》写了歌词。
《拔刀队》歌词
我は官军我(わが)敌は 天地容れざる朝敌ぞ
敌の大将たる者は 古今无双(双)の英雄で
之に从ふ兵(つわもの)は 共に慓悍(ひょうかん)决死の士
鬼神(きしん)に耻(はじ)ぬ勇あるも 天の许さぬ叛逆を
起しゝ者は昔より 荣えし例(ためし)あらざるぞ
敌の亡ぶる夫迄(それまで)は 进めや进め诸共に
玉ちる劔(つるぎ)拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
皇国(みくに)の风(ふう)と武士(もののふ)の 其身(そのみ)を护る灵(たましい)の
维新このかた废(すた)れたる 日本刀(やまとがたな)の今更に
又(また)世に出づる身の誉(ほまれ) 敌も身方も诸共に
刄(やいば)の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の
死ぬべき时は今なるぞ 人に后(おく)れて耻かくな
敌の亡ぶる夫迄は 进めや进め诸共に
玉ちる劔拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
前を望めば劔なり 右も左(ひだ)りも皆(みな)劔
劔の山に登らんは 未来(来)の事と闻きつるに
此世(このよ)に於(おい)てまのあたり 劔の山に登るのも
我身(わがみ)のなせる罪业(ざいごう)を 灭(ほろぼ)す为にあらずして
贼を征伐するが为 劔の山もなんのその
敌の亡ぶる夫迄は 进めや进め诸共に
玉ちる劔拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
劔の光ひらめくは 云间に见ゆる稻(稲)妻か
四方(よも)に打出(うちだ)す炮声(声)は 天に轰く雷(いかずち)か
敌の刄に伏す者や 丸(たま)に碎(砕)けて玉の绪の
绝えて墓なく失(う)する身の 尸(かばね)は积みて山をなし
其血(そのち)は流れて川をなす 死地に入(い)るのも君が为
敌の亡ぶる夫迄は 进めや进め诸共に
玉ちる劔拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
弹丸雨飞(だんがんうひ)の间にも 二ツなき身を惜(おし)まずに
进む我身は野岚に 吹かれて消ゆる白露の
墓なき最后とぐるとも 忠义の为に死ぬる身の
死(しに)て甲斐あるものならば 死ぬるも更に怨(うらみ)なし
我と思はん人たちは 一歩も后へ引くなかれ
敌の亡ぶる夫迄は 进めや进め诸共に
玉ちる劔拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
我今兹(ここ)に死(しな)ん身は 君の为なり国の为
舍つべきものは命なり 假令(たと)ひ尸は朽ちぬとも
忠义の为に舍(すつ)る身の 名は芳(かんば)しく后の世に
永く传(伝)へて残るらん 武士と生れた甲斐もなく
义もなき犬と云(い)はるゝな 卑法者(ひきょうもの)となそしられそ
敌の亡ぶる夫迄は 进めや进め诸共に
玉ちる劔拔き连れて 死ぬる觉悟で进むべし
参考资料
最新修订时间:2021-01-29 19:46
目录
概述
生平
《拔刀队》歌词
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