江戸において
会津藩の山本覚马と知己になり、その縁から、会津藩
藩校・日新馆の兰学所において兰学を教授し、鉄炮・弾薬の制造も指导した。庆応元年(
1865年)、山本覚马の妹・八重(後の
新岛八重)と
结婚。会津戦争では、八重と共に鹤ヶ城笼城戦に参加した。
その後の尚之助について、かつては、江戸において手习いの师匠として暮らしたとの说が有力であったが、
平成23年(
2011年)に北海道立文书馆にて発见された史料によると、
会津松平家の家名存続が许され
下北半岛に3万石で立藩された斗南藩に移住、外国商人と
米の取引を行うが
诈欺に遭ってしまったために
诉讼を起こされ、裁判中の东京で
肺炎のため死去したとされている
川崎出身于但马出石藩(今兵库县北部丰冈市出石町)的医家,学习过兰学与舍密术(理化学)是一位有为的青年,当知道会津藩的日新馆成立了兰学所,他前往拜访该兰学所教席的
山本觉马。经过晤谈,认为川崎是位难得人才的觉马,推荐给会津藩让他负责兰学所的一些课程,此种机缘,川崎遂在山本家租屋搭伙。
婚后的第3年
戊辰战争延烧到会津,鹤城(通称会津若松城)笼城战之前,他们两人离了婚,理由是「八重不愿意他藩的川崎卷入这场与他无关的战争」可根据后来的资料显示,川崎当时已经加入了会津藩,到底真正的事实又是如何?还有行踪成谜的川崎,真的就人间蒸发了吗?
会津藩士当时也有很多离婚的这种情况发生,原来如果不离婚的话,丈夫去世后妻子改嫁给富裕的商人,对於武士来说这是个奇耻大辱。换句话说,离婚的污名将会一直跟随著他的妻子,如此也会为丈夫守节。
至於川崎的行踪,在会津藩败北之后,原来他随新藩主迁移到斗南藩(今青森县陆奥市)过著农林生活。开垦该地确实非常艰苦,於是他与同僚尝试做米粮期货买卖,看这样对斗南藩的食粮供给是否有所改善,结果是让人给骗了所有的资金。在八重第二次婚姻的前一年(明治8年,1875)3月,身染重症肺炎的川崎在东京去世了。