嘉祯2年(
1236年)丹後守、嘉祯3年(
1237年)に宫内少辅になり、鎌仓幕府4代将军藤原頼経に近仕した。宝治合戦の直前、
宝治元年(
1247年)3月2日に、时頼の姉妹である泰氏の正室が死去。宫騒动、宝治合戦に続く执権・北条时頼による
得宗専制体制强化の过程で、有力御家人の势力が削がれていく中でも、父の义氏は幕府宿老として重んじられていたが、
建长3年(
1251年)12月、泰氏は36才で无断
出家してしまい、幕府の许可无く出家したことを咎められ、自身が拝领した下総埴生荘を没収されて足利の本领に闭居した。以降、政治の舞台に出ることはなくなったとされる。泰氏の出家の翌年3月には5代将军藤原頼嗣が京へ强制送还されていることから、何らかの関连性があったと考えられているが、无断出家をした原因は不明である。なお义氏は、泰氏出家後も地位や所领を保ち、頼氏には义氏の所领が相続されている。
家内にあっては、はじめ名越流北条氏の北条朝时の娘を
正室に迎え、斯波家氏、渋川义顕を储けるが、後に
得宗家の
北条时氏の娘と婚姻することになり、これを正室として足利頼氏を储けた。得宗家との婚姻により、朝时の娘は
侧室に移され、後継者と目されていた家氏は廃嫡、尾张足利家として後の
斯波氏の祖となり、足利宗家嫡男も正室の子である頼氏となった。このような経纬もあり、足利一门の中でも斯波氏は格别の家格を夸ることとなる。さらに後には桜井判官代俊光の娘との间に、
一色公深を储ける。公深は桜井判官代俊光より
三河国幡豆郡吉良荘の地头の身分を譲り受け、吉良荘一色郷(爱知県
西尾市一色町)に住み、足利家の四职のひとつの家となる
一色氏の祖となる。
文永2年(
1265年)に智光寺を建立した。
室町幕府を开府する前の足利氏の势力は、父・义氏と泰氏の顷が最大だった。その顷を偲ばせる、泰氏が足利氏の氏寺・
鑁阿寺南大门に足利一党の武者500骑を势揃いさせた故事に因んだ节分铠年越という行事が今も
足利市で行われている。